怨霊信仰

どうも自分でも腑に落ちないことがあった。
靖国神社の話である。


正直、中国だの韓国だのに、参拝するしないであーだこーだ言われたくない。
ただ、彼らの論拠は実はロジカルだ。


靖国神社は、戦没者に感謝をささげるためのものである。

そこには、戦争犯罪人もいる。

戦争犯罪人に感謝をささげるということは、戦争犯罪人の行為は正しいと思っている。

だから、日本は反省していない。


客観的にみて、論理の破綻はない。
それに対する反論の代表格は、
・そもそも戦争犯罪人とされる人たちも、悪人ではない
である。
小林よしのり氏の一連のマンガは、基本的にこの路線だ。


しかし、昨日紹介した山本七平氏の本を読むと、どうもこの路線にも納得いかない。
アジアの人々への迷惑の前に、武器なしでルソン島に自国の兵士を送り込む、
こういう行為は、立派な殺人行為だと思う。
そりゃ、A級戦犯の中には、和平に尽力した人ももちろんいる。
けど、上記のような殺人行為をした人も、一緒に「感謝」されたら、たまったものではない、
と、ルソン島で命を落とした人は思うんじゃないだろうか。


けれども、じゃあ、中国韓国の人が言うように、靖国からA級戦犯だけ放り出すのは、
なんだか違うような気がする。
放り出したA級戦犯の人用の、国立慰霊碑なんてのを作る話があるそうだが、
国立の慰霊碑を建てたら、上記の中国韓国ロジックによると、
戦争犯罪人に感謝している図式になんらの変化はなく、
やっぱり「反省していない」ことになるのは明白だ。
じゃあ、単に放り出すのはどうか、というと、なんだか気持ち悪い。
というか、生理的にやっちゃいけないような気がする。


この気持ち悪さってなんなんだろう、と、ずっとひっかかっていたのだが、
ひょんなことから腑に落ちた。
今日、工場の人と世間話をしていて、地震の話から飛行機事故の話になった。
そのとき、
「やっぱり日航機事故から20年ちょうどの日から、こういう事故がたてつづけにおこるのは*1
やっぱりなんかあるんですかねえ」
という話が出た。
そういや、田舎に帰ったとき、親戚のおばちゃんも、ウチの妹も同じ話をしていたなあ、
そう思ったとき、パチンと腑に落ちた。
そうかあ、怨霊信仰なんだ。


怨霊信仰というのは当人にとって、理不尽な死に方をすると、
怨霊になってさまざまな災厄をもたらす、という信仰である。
そうならないために、そういう人たちを、日本人は、伝統的に神にして、
なだめてきたわけである。
一番わかりやすいのが、逆賊として九州に流され死んだ、北野天満宮の神様、菅原道真である。


その理屈では、日航機事故でなくなった方々は、怨霊になってしかるべきである。
飛行機事故という理不尽な死に方をしたわけだから。
そういう前提があるから、工場の人も、親戚のおばちゃんも、ウチの妹も、同じように、
「20年でなにかあるに違いない」
という話になり、みんな「ああ、なるほどねえ」と、なるわけである。


で、その視点で靖国神社を見ると、すっきりする。
そもそも靖国神社は明治時代に作られている。
これを理由に、日本古来のものではなく、軍国主義のシンボルだ、
みたいな論調を見かけるが、要するに、「外国との戦争で死んだ人」を慰霊する場所が従来なく、
ほっとくと怨霊になるから、靖国神社は作られた、と解釈できるわけで、
やっぱり日本古来の信仰によるものなのだ。
で、いかにA級戦犯だろうが、武器なしで最前線に人を送り込んだ殺人者であろうが、
東京裁判」という理不尽な仕掛けで死んだ人を慰霊しないと、
とんでもない災厄が起こりそうだ、という理由で、
単にA級戦犯靖国神社から放り出す、という話に、
私は、生理的な嫌悪感を持ったわけである。


うん、これからは胸をはっていえる。
靖国神社A級戦犯を祭っているのは、そうしないと怨霊になって災厄をもたらすからだ。
これは、日本古来の怨霊信仰である。
公式には大罪人が神になっている例が、日本にはいくらでもある。
無神教が前提の中国共産党のみなさん、非科学的と笑ってくださいな」


参考文献。

逆説の日本史2 古代怨霊編(小学館文庫): 聖徳太子の称号の謎

逆説の日本史2 古代怨霊編(小学館文庫): 聖徳太子の称号の謎

*1:福岡の部品落下と、ギリシャの飛行機墜落事故