「受験脳」という災厄

気づいておられるかたもおられると思うが、私が今までつらつらと書いてきたマネジメント手法は、
別に全部自分で考えたわけではない。
クリティカルチェーン」に紹介されているお話と、「トヨタ生産方式」と一般に呼ばれている
生産性向上手法を組み合わせ、実務で行ったアイデアを付け加えたものである。


特に、「クリティカルチェーン」に関しては、読み終わったときの「なるほど」感が非常に強かった。
目からウロコというやつである。
早速複数の人(少し自分より若手の人中心)に「これ、絶対にお勧め!!」と、言って貸し出し、読んでもらった。


ところが、である。
実際の実務に使える、と、感じた人はいなかった。
いわく
「情報システム開発の現場とは、関係ない話ですよね」
・・・なぜ私の感じた高揚感を共有できないのだろうか??


少々の時間が経過したあと、気づいたことがあった。
彼らは、なんの本にしてみても、そのものズバリ!!が、書いていないと、「関係のない話ですね」になり、
そのものズバリ!!が、書かれていると、「ここが違うから使えませんよね」という反応を起こし、
フィクションを読むかのように、ビジネス書を読んでしまう。
つまり、本の中身と現実とが、まったく分断されていて、現実の問題に、本の内容を落としこめないのだ。


これは、「受験脳」というやつではないか、と、私は思う。


基本的に、「受験」というものは、以下の性格を持っている。
1.現実の世界から分断されている
  数学の微分積分を、日常世界で使う機会はまあない。
  2次方程式ですら微妙である。
2.答えが用意されている
  正解のないテストというのはありえない。
このような性格を持つ受験をくぐりぬけてきた人々にとって、本に書いてあることが
テストの正解でないことは、許せないことなのではないか。


すると、反応は二つ。
数学の答えのように、実世界の問題からは隔離された「正解」が書いてある、という反応
もうひとつは、実世界の「正解」になっていないため、「この答えおかしいよ」で、思考がとまる反応。
本当は、その本の書かれている「思想」なり「方法論」なりを、自分の実世界に落とそうと、
自分の頭を使って考えることこそが必要なのだが・・・


ここまで書いていて、「受験」というものと、「テレビゲーム」というものの共通点に気がついた。
上記の特徴は、そのままテレビゲームの世界と同じだ。
なんのことはない、キレやすくなると話題の「ゲーム脳」とやらは、
「受験脳」と私が名づけたものと同じだったわけだ。


うん?
そうすると、学校では受験勉強で現実と切り離され、家での息抜きにゲームをし、
現実から切り離されている子供たちは、いつ「現実」と接点を持つのだ??


なるほど、テレビゲームをやることで、さらに現実との接点が減ったわけだ。
で、受験勉強はみんなするべきだ、と、思うから、テレビゲームがやり玉にあがるわけだ。
逆に、学校のでの勉強が、現実との接点を持つようになれば、「ゲーム脳」という言葉はなくなるのだろう。


最後に断っておくと、私は、いわゆる「受験制度」自体をなくさないといけない、とは思っていない。
有史以来、人間は人間を評価するとき、「結果」を測定するには数字使い、
「見込み」が知りたい場合はテストをおこなってきた。
それ以外の客観的な手法を、実は人間は発明していないのだ。


「受験」があったから、今の私がある。
それもまた事実なのだ。

クリティカルチェーン―なぜ、プロジェクトは予定どおりに進まないのか?

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