隠れていた嫉妬 ソーシャルネットワーク

なんだ、あんまり面白くなかったな


エンディングロールが出たとき、そう思った。よくある話を、ザッカーバーグを奇人にし、ショーン・パーカーをイケイケの悪役に仕立て上げていっちょあがり。そんだけじゃないか。なんでこれが、アカデミー賞ノミネートなんだ?いい!と言ってるブログたちはなんなんだ?昔の映画との類似性なんてのを持ち出して、自分を飾っているだけじゃないか。


けれど、眠れない。いくつかのシーンが、繰り返し目の前に現れる。一度消した電気をまたつける。なぜだ?よくある話じゃないか!


そして気づく。
そうだ、よくある話なんだ。
自分の大学時代、そして今の自分と重ね合わせ、見たくない現実を突きつけられる。


スケールは違うが、一応、私も「創業者」だ。しかし、一人でやること以上のことを、今やるつもりはない。事業を大きくしてどうこう、なんてのは、正直考えの外だ。
だが、今夜は、繰り返し、大学時代の友人が現れる。思えば、私の最後の親友。お互い連絡はないが、最後の親友が、こう語る。
「おまえは、いつも小さくまとまりたがる」
「小さくまとまろうとすると、小さいことまで逃げていくぞ」
まるで、ザッカーバーグFacebookの規模を大きくすることを解く、ショーン・パーカーのように。


そして、ザッカーバーグの陰鬱な感情・・・強烈なコンプレックスは、やはり田舎から大学にやってきた、という、私の昔のコンプレックスを呼び覚ます。わたしは、ザッカーバーグほどの才能はなかったから、そのコンプレックスを「仕方がない」と受け入れた。大学を卒業したら、田舎に帰って教師をするつもりだった。既存の権威、レールに乗ろうとする、エドゥアルドのように。


そして、既存の権威に乗ろうとした私は、教育実習前に、母校の先生とちょっとしたいざこざを起こした上に、当時の絶望的な教員採用数に直面し、出足がかなり遅れた就職活動をすることになった。


そのとき、最後の親友は言った。
「やっとその気になったか」
「でっかくいけ、でっかく!!」
私は、その言葉のまま、名の通った大企業ばかり、履歴書を送った。すると、2000年対応で人手が必要だった、銀行系のシンクタンクから採用通知が届き、今の私のキャリアが始まった。
そして、その親友は、関西系のTV局に就職していった。「でっかくいくぞ!」の言葉どおり。彼の名前は、名の通った番組のディレクターとして、今は見ることができる。


客観的に見れば、私はヤツに感謝しなければいけない。
しかし、どこかで嫉妬している。
オレは、本当に「おっきく」なる気になったのか?
ヤツの後を追いかけただけなんじゃないか?


幸いなことに、その親友とは別の業界で生きている。
もし、同じ業界ならどうだろう。もし、会社を二人で立ち上げていたりしたらどうなるんだろう。ザッカーバーグエドゥアルド、ショーン・パーカーのように、どちらかが、どちらかを「切って」いったんじゃないだろうか。今までは、君は必要だった。よくやってくれた。さよならだ。


ダメだ。そういうのには耐えられない。切るのも切られるのもたくさんだ。だから、会社はひとりでやろう。二年前、フリーランスになるときそう思い、今までやってきた。今のところ、大きなことは考えない代わりに、自分と家族くらいは養えている。


しかし。しかしだ。


大学からあと、親友らしいヤツは誰もいない。
親友とつらい別れをするのはイヤだ、と、思っていた私は、いまや親友すらいない。
ヤツの予言は正しかった。
「小さくまとまろうとすると、小さいことまで逃げていくぞ」


もう10年以上も会っていない、かつての親友に、わたしはまた、嫉妬しなおしている。
それが、眠れない夜の正体。


隠れていた嫉妬を思い出してしまうほど、多分この映画はいい映画なんだろう。
だけど、きらいだ。