ホウレンソウが生産性を悪くしているねえ・・・

昨今、ホウレンソウが生産性を悪くしている、みたいなブログを複数箇所で見るようになった。なんだかな〜と思う部分が多いので、ちょっと書いてみようか、と思う。

誤解があるよね

複数のブログを読んでみたのだが、典型的な論旨展開は、以下のようになっている。
日本企業は権限を現場に持たせない→なので、ホウレンソウが必要→だから、生産性が悪くなる
逆に、
外国企業は権限を現場に持たせている→なので、ホウレンソウが必要ない→だから、生産性がいい。


「外国企業は権限を現場に持たせている」
これは、ウソとは言わないけれど、正確な表現ではないと思う。権限が明文化されている、というほうが正しい。
権限が明文化されているということは、逆に、「やっていいこと」は、その明文化されていることに限定され、現場の裁量というものは小さくなっていく。

例 営業組織の場合

BtoBの仕事をしている外資系の会社で、社長なり営業部長なりが外国人になり、営業政策に口を出してくると、現場の裁量が小さくなって、営業成績が落ちる、という事象を何度か見てきた。


現場には、「マニュアル」と「メニュー」が渡され、そこに書かれている条件以外では売れなくなる。例えば、IT業界みたいなところだと、極端な話「人月固定金額での条件はダメ。時間清算のみOK」というような感じになる。なので、現場では「自社に持って帰り確認する」という作業は必要ない。


まあ、それで商売できるなら問題ないんだけれど、日本企業は、現場で複数の案を立案する。この例だと、時間清算にするのか、固定金額なんだけど、ちょっと高めの金額にするのか、というような形である。客の側からすれば、こっちのほうが都合がいい。自分の都合に合わせてくれるのだから。ただ、営業担当者の権限が明文化されていないため、「このセンで部長に確認してみます」ということになる。


つまりは、営業活動の場合、日本的なお客様は神様です、細やかな対応をさせていただきます、という日本的価値観を実現しようと思えば、「ホウレンソウ」は絶対に必要だと思うのだ。

例 開発の現場

まあ、自分の体験になるのだけれど、エラー一覧の仕様書を作ったときの話である。画面定義のところに、「エラーメッセージを表示」と書いていたら、本当に「エラーメッセージ」という文言が表示されていて、度肝を抜かれたことがある。しかも、ご丁寧に単体テストは完了しました、という、非常に詳細な資料と一緒に。


そんなのわかるだろ、みたいな話をしたら、わかるわけがない、という反応をうけ、今までの工数がムダになった、と、逆ギレされたわけなのだが、まあ、工数がムダになったことは事実で、これを防ぐ方法は二つ。こまめにレビューするか、作業者の自覚により、疑問に思えば確認する、つまり「ホウレンソウ」を行うか、どちらかである。


ホウレンソウとは、部下のほうから上司のほうに能動的にコミュニケーションを取ること、と、定義できると思う。逆に、レビューという行為は、上司のほうから部下のほうに、能動的にコミュニケーションをとる行為で、まあ、上記のような無益な言い争いは、どちらかをやっていれば回避率が高くなる。
で、「ホウレンソウ」が生産性を悪くしているなら、「レビュー」がその代替になるのだけれど、そうするとレビューをする「リーダー」に、より負荷のかかる状況となる。しかし、リーダーはリーダーで、上司向けの仕事もあったりするので、レビューを緻密にするにしても、限界があったりするので、まあ、その開発品質は、リーダーの気合に依存する、という状況が生まれるわけだ。
そうすると、勢い、リーダーの気合がなくなったときに、品質はノンストップで悪くなっていく。


言いたいことは、「ホウレンソウ」なしで品質を確保することは、まあ無理とは言わないが、かなり難易度が高く、日本の「品質の高さ」というヤツは、「ホウレンソウ」に支えられているという側面は絶対にある、という話である。


そう思うと、海の向こうでは、出世するほど忙しくなっていく、という理由がよくわかる。部下から上司のほうに能動的にコミュニケーションを取る、というプロセスがないのだから、レビューというプロセスを自分でやるしかないし、管理者ともなれば、自分の上司向けの仕事や、計画の策定など、やることが加速度的に増えていく。勢い、出世するほど忙しくなっていくわけである。

そりゃ、悪いとこもあるけどさあ

確かに、一面で「ホウレンソウ」は、責任の所在をあいまいにし、決定を先延ばしにする、という側面もある。しかし、それは「ホウレンソウ」を使うときに気をつけることであって、「ホウレンソウ」をやめてしまえ、という議論はあまりにも乱暴だなあ、と思うのである。交通事故があるからって、車を使うのをみなさん止めるんですか?って話である。


まあ、「ホウレンソウはいらない」みたいな論調が、特に反論もされず受入れられているところに、日本のモノ作りが弱くなった、という事実も重なるのかなあ、なんて、適当な言いっぱなしをして、今回のエントリは終わってしまうのであった。