逃亡車掌擁護論に反論する

うーむ、なんだか過激な題になってしまった。
もちろんネタは、尼崎の列車事故である。
しかし、どうもネットで見かける「逃亡車掌擁護論」は、納得できないのである。


確かに、ボウリング大会や飲み会をあげつらう昨今の報道は悪質であると思う。
しかし、あの列車に乗っていた車掌は、ちょっと違うんじゃないだろうか。


「逃亡車掌擁護論」は、その場にいたって、彼のスペシャリティーは発揮できず、
職場に戻って列車運行をやるほうが、最適化としては当然である、という論旨が大半である。
これは、一見正しい。
特に、仕事というものは、「役割分担」をキチンとやっていれば、うまく動くものだ、と考える人々にとって、
受け入れやすい考え方であろうと思う。
自分の「役割分担」さえ、きちんとやっていれば問題なし、という考え方だからだ。


しかし、私は、そもそも「役割分担」こそが、プロジェクトを遅延させる、という立場に立つ人間である。
「感情論」ではなく、論理的に、上記の考えは間違っていると思う。
というのは、「その場にいる」ということは、優先度の高い事象が発生した場合には、
もっとも重要な「スペシャリティー」なのである。
つまり、ほかの人にはない「時間」を持っているのだから。


職場に戻って列車運行をやるほうが最適だ、という考えの前提は、事故現場には十分なリソースが
投入されている、という前提である。
しかし、レスキュー隊、救急車が来るまで「動ける」のは、現場にいる人間だけである。
隙間のあるところから、とりあえず人を出す、近所の家から水をもらってくる・・・
やることてんこもりではないか。
これらの仕事が、彼らが現場を離れたときにすでに十分な人手で行われていたというのだろうか?
感情的ではなく、論理的に、彼らのとった行動は間違っているのである。


そういう意味では、「JRの社員だから」あの2人は責められるべきではない。
「あの場所にいたのに、離れてしまった」から責められるべきで、それは、ほかの人も例外ではないと言える。
そういう意味では、この文章も「逃亡社員擁護論」の一形態かもしれないが。


第一である。
たとえば、自分がなにか事故にあって、車に足を挟まれたとする。
実際は、その中の何人かが動けば、その車は私の足から離れる状況で、
「レスキュー隊がやってくるから」
と、周りの人間から放置されたのではたまらない。
そんな考えを広めてもらったら、自分が危ない。
(うーん、これも感情論なのだろうか。自分では論理的だと思うが)


まあ、最後にめちゃくちゃ感情論に走ったコメントをしておこう。
「役割分担」優先論の方々は、事故った時に、ずっと足をはさまれていてもかまわないのだろう。
せいぜい、救急車が来るまで待っていてくれたまえ。
しかし、「救急車を呼ぶ」ということも厳密には周りの人々の「役割」ではないから、
その救急車が来る保障もないが。